駅のホームで、誰かが大きな荷物を落としました。目の前で、中身を拾い集めています。
知り合いではありません。それでも、少し体が動いて、「大丈夫ですか?」と声をかけるか迷います。
電車の中で、具合が悪そうな人を見つけたときも同じです。「誰かが声をかけるだろう」と思いながら、なぜか気になってしまう。
助けても、自分に得があるとは限りません。それなのに、目の前の人を「自分には関係ない」と、完全には切り離せなくなることがあります。
なぜ、困っている人を見ると、「何かしなきゃ」と思ってしまうのでしょうか。
「大丈夫かな」は、考える前に出てくる
困っている人を見た瞬間、「大丈夫かな」という気持ちが先に出てくることがあります。「この人は知らない人だ」と頭で整理するより前に、です。
助けるかどうかを決めるのは、そのあとです。でも、気になる気持ちのほうは、決める前に、もう動いています。
分かりきれない相手が、目の前にいる
この感覚を、倫理(人としてどうふるまうべきかを考えること)の出発点として考えた哲学者がいます。20世紀のフランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスです。
私たちは普段、目の前のものに名前をつけて整理しています。これは椅子。これはスマートフォン。あの人は店員さん。この人は知らない人。そうすると、世界は扱いやすくなります。
でも、目の前の人は、その整理に収まりきりません。その人には生活があって、自分の知らない事情があります。こちらの都合だけでは、分かりきれません。
レヴィナスは、こうした出会いを、「顔と顔を合わせる」関係と呼びました。ここでいう「顔」は、目や鼻のことではありません。「こちらの都合では片づけられない他人が、いま目の前にいる」という出会いのことです。
少し難しく聞こえるかもしれませんが、要するに、相手をよく分かってから動くのではなく、よく分からない相手が目の前にいるだけで、先に気持ちが動いてしまうことがある、ということです。
レヴィナスの考え方を借りると、「何かしなきゃ」は、頭で考えた義務というより、他人が目の前にいることへの、最初の反応だといえます。
「助けなければ」と、考えすぎなくていい
ここで注意したいのは、「困っている人は全員助けなければならない」というルールにしないことです。
急いでいることもあります。どう声をかければいいか分からないことも、助けが必要かどうか判断できないこともあります。現実には、自分の安全が先です。助けなかったから悪い、と単純に考える必要はありません。
困っている人を見たときの、いくつかの方法
方法は一つではありません。合いそうなものを選んでみてください。
- 体を動かして、助ける。 落とし物を拾って渡す、席を必要としていそうな人に譲る。小さな動きで十分です。
- 声をかける。 「大丈夫ですか」の一言だけでも、立派な応答です。
- 別の人につなぐ。 自分では対応できなければ、駅員や店員を呼びます。直接助けるより、そのほうがいい場合もあります。
- 余裕がなければ、無理に関わらないと決める。 自分の安全や余裕を、先に守ってかまいません。
「助けるか、見捨てるか」の二択だけで考えないことです。小さな応答も、専門の人につなぐという応答もあります。ときには、何もできないこともあります。
知らない人を見て、なぜか少し気になる。その感覚を、ただの余計なお世話として片づけなくていいのです。
誰かを完全に理解できなくても、「ここにいる」と気づく。人としてどうふるまうかは、難しいルールを覚える前の、そんな小さな気づきから始まっているのかもしれません。
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